【7・10大阪ODAセミナー報告】高橋清貴さん講演「日本の政府開発援助(ODA)を検証する」要旨

2010年7月10日、ヒューライツ大阪(アジア・太平洋人権情報センター)と大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)共催による連続セミナー「国際開発協力の現場から日本社会に問う」第1回が行われました。東京からJVC(日本国際ボランティアセンター)/ODA改革ネットワークの高橋清貴さんが講師として来阪され、東京で行われつつある政府とNGOの間の対話など、ODAの抜本的な見直し作業の実情を報告されるとともに、そもそもODAは何のためにあるのか、「開発」や「成長」を根本から問い直す極めてラディカルで刺激的な問題提起が行われました。以下はこのイベントに参加した当ブログの管理人がメモを元に勝手に文章化した「報告」ですので、内容や表現については文章化した当方に責任があります。


 管理人


(関連記事)
【他団体の取り組み/連続セミナー「国際開発協力の現場から日本社会に問う」第1回】7/10「日本の政府開発援助(ODA)を検証する」(大阪)‏
http://d.hatena.ne.jp/odanetkansai/20100614/1276518783




(以下、メモを元に採録


7月10日 高橋清貴さん講演「日本の政府開発援助(ODA)を検証する」要旨


JVCは1980年に活動を開始、当初、難民救援でカンボジアに関わりは始めた。その時のスタンスは、NGOとは外交関係とは無関係に独立して活動することを目指すということで、現在に至るまで、これがJVCのDNAとなっている。

 冷戦が終結し、90年にパリ和平協定が結ばれ、カンボジアへの復興支援・援助が始まった。そこで出てきたのが、「食糧増産援助」だった。日本の「食糧増産援助」は、農業機械・農薬・化学肥料をセットにしたパッケージ援助で、カンボジア農業の実態を知っているJVCからすれば、現地のニーズに合っているのかと問題にした。水田からさまざまな食料を採っているカンボジア農民にとって、農薬で水田を汚染することが何をもたらすのかは明らか。JVCカンボジアへの「食糧増産援助」反対キャンペーンを始めた。

 上智大学カンボジア人研究者の研究では、カンボジアへの援助のプレッジ(約束額)とディスバース(実施額)の比率に関して、日本は120%、北欧は30%という調査結果が報告されている。なぜ、北欧はこれほど少ないのか、現地の人や組織を育てながら援助しているから。当時は、誰もカンボジアの実情はわかっていなかった。現地のNGOも「待ってくれ」と言っていた。一度に大量のお金が入ってくると、お金のために組織や仕事やニーズをつくってしまう危険性があるので、ゆっくりやってほしいという要求だ。日本は、現地のニーズとは無関係に日本側がかってにプランをつくってしまい120%実施した。

 カンボジアへの「食糧増産援助」は阻止できたが、今度はモザンビークで「備蓄」ということで実施されてしまった。カンボジアを救えてもアフリカへ、まるでモグラ叩きだ。日本側を変える必要が痛感させられた。1995年のことだ。

 私は大学卒業後、青年海外協力隊に入り、フィリピンの大学で物理学を教えていた。1982年から1983年ころでベニグノ・アキノ(現アキノ大統領の父親)が暗殺されたころだ。当時、東南アジアでフィリピンの大学進学率が一番低いということで問題になり、職業訓練校を急遽、大学にした学校であり、設備など大変不足していて、日本のODAで実験機材が送られたが、誰も使っていなかった。無駄なODAを目の当たりにした。

 協力隊から帰国して、7年間、ODAコンサルタント会社で働いた。インドネシアでは、円借款で医療器械を病院に送った事後評価の仕事をしたが、援助で送られたレントゲンの機械などが野ざらしになっていた。機械の重量に耐えるよう病院の床を強化する必要があったが、大きさが合っていなかったためだ。38億円の円借款が無駄になった。28億円の円借款で機械を新たに送ることになった。試薬のラベルはすべて日本語、現地の人に読めるはずが無い。商社は「契約書上、問題はない」。I試薬のラベルはすべて日本語、現地の人に読めるはずが無い。JICAはチェックせず。パキスタンでは、大学の実験棟の建設に関わったが、一度、決まった入札をやり直せとパキスタン側が言い出した。丸紅からワイロが現地政府に贈られた結果だ。JICAに「これはまずいですよ」と報告しても、問題にもされない。強硬に申し入れると「それがコンサルの仕事」「あまり強く言うと、お宅に仕事行かなくなるよ」とJICA職員に言われた。80年代のことだ。

 ODAって何か?ODAは「援助」ではなく、大きなお金が動くところで、関係者が群がってきて、引っ張り合いをしているところなのだ。

 ODAを考えるときに、3つのスタンスがあり、どのスタンスから論じるかで違ってくる。

①国際協力、国際的な責任、人道的な理由
②企業、日本の資源外交、市場確保など通商産業的な立場
③政治目的(外務省)


望ましい社会・世界とODAについて

 持続可能な社会づくり、環境・開発と人権について考えたい。永続的な資源・自然環境の管理と広義の社会的公正、そして、人間と自然の間のバランスが問われている。最近、強く感じるのは、私達の今の状態は、タイタニック号の船上で氷山にぶつかろうとしているのに飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしているのと同じような状態であるということ。
92年のリオ・サミットで、気候変動、生物多様性、森林原則の三つが合意された。気候変動では、スターン報告が出されて、貧困層への影響など、気候変動が経済の問題として語られるようになった。COP10で出されるレポートでは、生物多様性の喪失が33兆ドルの損失をもたらすと報告されている。貧困(経済)と環境の問題が共通言語で語られるようになってきた。ハイチでは、まさに、貧困と環境破壊の関係があらわれている。今や、無限の成長という成長神話自体が問い返されつつある。

 この問題を考えるにあたって、四つのスタンスが考えられる。

①グローバル・ガバナンス(各国政府)
②再配分と社会保障(国連、国際協力NGOMDGなどの立場
③脱資本主義(ATTAC、世界社会フォーラム
④脱成長(セルジュ・ラトゥーシュイリイチシューマッハー、辻)自立したローカルな社会

 私は、最後の脱成長というスタンスにもっとも近い。これからは、MDG批判も必要だと感じている。

ラオスでの開発による熱帯林破壊の映像を上映、「ほとんど自然の虐殺だと感じた」)

「森さえあれば何もいらない」(現地農民)

 ベトナムによるゴム・プランテーション植林、その背景にある国際ゴム価格の値上がり、それは、中国自動車産業の成長のため。

 会場全体が静寂に包まれた(もっとも感銘を与えた)リオ・サミットでのイヴァン・スズキさんの講演「なおし方のわからないものを、壊すことをやめてください」

 成長重視型社会からの脱却が必要だ。「経済成長と労働生産性の向上の無限サイクル」というストレスからの解放が問われている。それは、一定の失業を認め、失業に関する社会保障を強化する、持続可能な社会福祉サステイナブル・ウェルフェア)、定常型社会ということだ。GDPをやめること。


日本のODAの特徴

戦後賠償から経済発展の手段に
冷戦終了後、悩みながら積極外交の手段に
1991年 湾岸戦争
1992年 ODA大綱
1995年  インドシナ総合開発フォーラム
1996年  新開発戦略(OECD)BHN→MDGの原型
1997年  アジア通貨危機
 97年のアジア通貨危機以降、ODA減少
2001年 9・11
2002年 ODA大綱見直し(2003年)
2003年 イラク戦争
2004年 武器輸出三原則緩和
2005年 グレン・イーグルズ・サミット MDG達成を強調
2006年 ODAで武器輸出
2008年  新JICA、リーマン・ショックTICAD?
2009年  民主党政権
2010年  ODA見直し
2011年  ODA大綱見直し?
 2000年代以降、安保・反テロ強化。

 最近、外務省官僚は、居直り「ビジョン無いもの。民主党は評価できるもの作れというが無理」。財務省官僚も開き直り「ひも付きやって当然」。

 日本の国際貢献度は最低。

 ODAは、南から北への資金移転、生活・環境破壊、ニーズに合わない、評価体制ずさん

 制度疲労起こしている。国際協力省、基本法が必要。

どうするべきか。4つの選択肢がある。

アメリカ型(ODAは外交上の戦略ツール、イスラエルやエジプトが最大の受取国)
②イギリス・カナダ型(ODAは貧困削減に特化。そのことを法律で明記) 
③二元論(外交戦略として使う分と貧困削減に使う分を分ける)
④日本型(曖昧なままにしておく。二つの目的を併記。外務省の「総合的判断」にまかせる)

2008年、カナダで、ODAアカウンタビリティ・アクト成立
貧困削減を目標とする、もっとも貧しい人々の声を反映、人権を守るという三つの条件を備えたものがODAと定義

 なぜ、カナダで出来て日本で出来ないのか?日本が「経済成長を前提としないODA」と先に言えば、それがデファクト・スタンダードになる。