【注目記事・愛媛新聞社説】「ODA見直し」施しから協力へ方向転換を

愛媛新聞ODA改革に関する社説です。


  今回(4月13日)のNGO・外務省政策協議会に提出された外務省配布資料「ODAのあり方に関する検討」(中間報告)について論じています。記事中に「ODAが人の命を奪った例さえあるのだ」とありますが、最近でもODA絡みの殺害事件は発生しています。


【写真(右):サンロケダムの抗議集会で話すアポ・ホセ(ホセおじさん)。地元パンガシナン州から約400人が参加したマニラの日本大使館前での抗議集会。ダムの貯水中止と適切な補償を求めた。(2002年9月 FoE Japan撮影)地元の農民運動のリーダーで日本の円借款によるサンロケ灌漑事業プロジェクトへの反対運動に関わっていたホセ・ドトンさんは、2006年5月16日、オートバイに乗った暗殺者によって射殺された。サンロケ現地では、ダム建設サイトに立ち入った若者が警備員に射殺されるなどの事件も起きている。日本のODAによるボホール・ダム建設でも反対運動のリーダーが殺されている】
出所:「フィリピン・サンロケダムに反対してきた住民リーダーが地元で殺害」(国際環境NGO FoE JapanのHPより)
http://www.foejapan.org/aid/jbic02/sr/press/20060602.html

(関連映像の紹介)

「アポ・ホセの遺言」「ルイシタ農園ストライキ
日本語字幕・日本語吹き替え
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/9660/jinken/wayawaya.html#1

「AKLASAN(ルイシタ農園ストライキ)」
2004年11月、ルイシタ農園(実は現在行われているフィリピンでの大統領選挙で当選するであろうと大方から予測されているアキノ候補の一族が所有している農園です)でストライキ中の農園労働者に対して行われた軍による弾圧と農民虐殺の記録

「アポの遺言」
日本の融資で建設されたサンロケ多目的ダムに反対し、地元住民の活動を束ねてきた農民リーダー、ホセ・ドトン氏の話。2006年5月に彼が殺害される前の生前のインタビューを収録。

(関連映像サイト)

フィリピン ODAのダム 暗殺疑惑 報道特集19:23

アロヨ政権下のフィリピン。日本のODAで造ったダムの水で農民は潤うはずでした。しかしダムには十分水が溜まらないため作物が育たず、水の使用料を取られるだけの農民もいます。この現状を告発しようとしていた人権運動家が暗殺されました。暗殺とODAとは直接関係は無いと思われますが、本ビデオはフィリピンの現状の一端を示すリポートです(報道特集NEXT 2008/5/25)

http://video.google.com/videoplay?docid=4912264474096421690#


(以下、「特集社説2010年04月26日(月)付 愛媛新聞」より一部抜粋)

「ODAの海外評価は驚くほど低い。
 初期のODAは業務を日本企業に限定した、いわゆる『ひも付き援助』だ。利権をめぐるわいろ事件もあり80年代以降は見直しが進んだ。
 しかしこうした歴史から、ODAは『日本企業の海外進出のための地ならし』との批判を常にまとってきた。
 援助国の住民を置き去りに森を切り開き、巨大なダムや道路、港をつくり続けてきた日本。富める者は財をなし、貧困層の生活は奪われた。
 先住民が来日しては『もう援助はやめて』と訴え続けた時期もある。かつて訪れたフィリピンでは、住民が排除され死者が出た現場を見た。援助の名のもと、ODAが人の命を奪った例さえあるのだ」

「『国益』を基準にすることに危惧も抱く。これまで『経済侵略』とさえ批判されてきたODAを立て直すには、国益だけでなく、ともに利益を追求するという軸足をまず固めねばなるまい」

(引用終わり)


  これまでも貧困問題や飢餓問題など市民社会的な目線からの極めて良質な社説を掲載する地方新聞として注目してきましたが、以上の記述からもわかるように、この社説からは実際の「援助」の現場を知る良心的なジャーナリズムの精神が伺えます(管理人)。


特集社説2010年04月26日(月)付 愛媛新聞
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201004265816.html


「ODA見直し」施しから協力へ方向転換を


 援助国の実情を無視した開発など、とかく批判の多かった政府開発援助(ODA)の見直しに向け、外務省が中間報告をまとめた。国民の意見を取り入れる仕組みづくりなどを盛り込んでいる。

 国民の知らないまま援助内容が決まる上、援助国からも不満が続出していたODAを抜本的に改革する契機として注意深く見守りたい。

 ODAは当時のビルマを対象とした1954年の経済協力協定に始まる。以降、フィリピンなど東南アジアを軸に展開され、当初は戦後賠償の意味も付されていた。

 日本は経済協力を通じ、国際的な影響力を増大させてきた。武力協力という手段を持たないだけに、外交上の「武器」として定着したのだ。

 しかし、ODAの海外評価は驚くほど低い。

 初期のODAは業務を日本企業に限定した、いわゆる「ひも付き援助」だ。利権をめぐるわいろ事件もあり80年代以降は見直しが進んだ。

 しかしこうした歴史から、ODAは「日本企業の海外進出のための地ならし」との批判を常にまとってきた。

 援助国の住民を置き去りに森を切り開き、巨大なダムや道路、港をつくり続けてきた日本。富める者は財をなし、貧困層の生活は奪われた。

(写真〔左〕:フィリピン・サンロケダム建設に反対するイトゴン市の町、バギオの中心街でのデモンストレーション。1999年4月 FoE Japan撮影)


 先住民が来日しては「もう援助はやめて」と訴え続けた時期もある。かつて訪れたフィリピンでは、住民が排除され死者が出た現場を見た。援助の名のもと、ODAが人の命を奪った例さえあるのだ。

 問題はあまりに多いと言わざるを得ない。途上国の環境を壊し格差を増大させる。現状は放置できず、改革はむしろ遅かったといえよう。

 見直しでは、有識者や非政府組織(NGO)の意見を取り入れ国民の理解を得る。援助国の国づくりの姿勢や日本との関係などを基準に、「国益」に合致すれば円借款なども検討するという。

 しかし「国益」を基準にすることに危惧も抱く。これまで「経済侵略」とさえ批判されてきたODAを立て直すには、国益だけでなく、ともに利益を追求するという軸足をまず固めねばなるまい。

 重点項目として挙げた貧困削減、平和構築、環境などについては歓迎したい。いずれも日本の得意分野を生かした援助となろう。協力の結果が国益にもつながるなら、国際理解も得られるはずだ。

 かつて世界一だった援助額はいま5位。援助開始当時に比べ国際情勢は激変した。国際協力のあり方を、ODAの見直しとともに探りたい。

 報告では、ODAの位置付けとして「施しではなく、世界の共同利益追求のための手段」を挙げた。これまでの歴史に学び、国際的に信用される国になる機会だ。